私のブログ投稿が、もうそろそろ終わりに近づいて来て居ますが、最後に衝撃な場所を紹介します。
この場所は、豊太閤(豊臣秀吉)が身分制度を確立する為に、農民から武具等を回収させて武家に対抗させないように行なった政策で、この施策を受け継いだにが徳川家康が築いた江戸幕府でして、其処で士・農・工・商・○○・○○と言う身分制度を置き、時代劇さながら背景が今も昭和・平成・令和の時代まで連綿と引き継いで居ます。
この街は、昔の時代劇さながらな腐敗に満ちた官民談合の裏社会の縮図でして、「お代官様、是れをお収め下さいませ。越後屋、そちも悪よのうと・・・」と芝居さながら事がつい最近まで行われ、30年前の平成2年10月にとんでもない大動乱が此の街を襲ったのです。
此の原因というのは、裏社会・反社会勢力の者から察官が袖の下受け取り、其の事実を知った?知らされた日雇い労働者の怒りに火を注いで大規模な暴動に発展しました。
何故、日雇い労働者が立ち上がったかと申しますと、日雇い労働者の賃金の一部をピン撥ねした資金の一部がこの辺一帯を管轄しているマル暴刑事の賄賂に流れ、大きな事態と至り其の事が映像やメディアに流れて騒然とさせました。
この事件のオチが、賄賂に関わったマル暴刑事が懲戒処分の意味合いを兼ねて私の職場近くの堺市内に在る警察署に移動と成り、其の事が何処から知れたか判りませんがカタニカツイダカメラを持った一団が警察署玄関から駐車場に溢れ返っていました。
此の映像は、私が生まれた翌年1961年に大阪市西成区釜ヶ崎で起こった第1次釜ヶ崎暴動を撮影した写真です。
第1次釜ヶ崎暴動が起きて30年の歳月が過ぎ去り、其の間大なり少なりと20回の暴動が引き起こされ、この映像が通算22回目の暴動の背景を撮影した映像で、冒頭で述べたマル暴刑事とヤクザが原因で引き起こされた大暴動の様子です。
暴動が起きた数日後に、当事者達とは全然関係ない俗に言うヤンキー・族(暴走族)とか言う腐れ外道が日頃の鬱憤を晴らそうと労働者の列に割り入って遣りたい放題の悪行の限りを尽くし、この行動を垣間見た労働者達がこの馬鹿共に非難轟々を唱え、帰って怒りが覚めて暴動の収束に至りました。
暴動の起きた界隈は、破壊と略奪の限りが行われ、コンビニが甚大な被害を被ったそうです。
私も数週間後、検証の為に訪れて辺りを散策しましたが、街の雰囲気が一変して痛かったです。
其の後も暴動は少なりとは言え2回発生し、その後は令和の御代まで沈静化しています。
此方の2枚の映像は、南海電鉄・JR西日本の新今宮駅が在る場所で、此の高架下に日雇い労働者・日雇い人足が集まるあいりん地区と呼ばれる労働者センターが在りました。
令和3年3月31日現在、此方の施設は或る理由で閉鎖され、此方に日雇いの斡旋は現在一切為されて居ません。
施設の白壁に、閉鎖に至った経緯が1枚の紙に記されており、如何にも言い訳めいた文言が散らばめていました。
施設周りは雨が凌げる場所が有るので浮浪者がブルーシートを用いて簡易テントを設営して其処で寝て暮らしている生活の場と化し、辺り一面はゴミや紙くず塵芥が積まれて荒れ放題と成り、壁一面に此の様な映画ポスターみたいな意味を成さない張り紙が辺り一面に貼り付けられて居ました。
あいりん地区労働者センター内には、日雇い労働者を診る医療センターが在りましたが、センターの廃止と老朽化に伴い、センター真横に隣接して新たに医療センターを新設したみたいです。
此処で、皆様に申しておきたい事と致しましては、人流の流れや様子は一切撮影していません。
其の様な事を行えば、我が身に如何なる危険が及ぶかは未曾有なので空気を肌で感じて行いました。