神社寺院巡礼のブログ

神社と寺院を訪ね歩き、御朱印を拝受して収集するブログです。

京都北野天満宮の縁日(毎月25日はてんじんさんの日)で、参拝した帰りに巫女と禰宜が御朱印を記帳してい光景を魅入り、余りにも気高くて気に入ったので参拝した証と成るので始めました。

私のブログ投稿が、もうそろそろ終わりに近づいて来て居ますが、最後に衝撃な場所を紹介します。

この場所は、豊太閤(豊臣秀吉)が身分制度を確立する為に、農民から武具等を回収させて武家に対抗させないように行なった政策で、この施策を受け継いだにが徳川家康が築いた江戸幕府でして、其処で士・農・工・商・○○・○○と言う身分制度を置き、時代劇さながら背景が今も昭和・平成・令和の時代まで連綿と引き継いで居ます。

この街は、昔の時代劇さながらな腐敗に満ちた官民談合の裏社会の縮図でして、「お代官様、是れをお収め下さいませ。越後屋、そちも悪よのうと・・・」と芝居さながら事がつい最近まで行われ、30年前の平成2年10月にとんでもない大動乱が此の街を襲ったのです。

此の原因というのは、裏社会・反社会勢力の者から察官が袖の下受け取り、其の事実を知った?知らされた日雇い労働者の怒りに火を注いで大規模な暴動に発展しました。

何故、日雇い労働者が立ち上がったかと申しますと、日雇い労働者の賃金の一部をピン撥ねした資金の一部がこの辺一帯を管轄しているマル暴刑事の賄賂に流れ、大きな事態と至り其の事が映像やメディアに流れて騒然とさせました。


この事件のオチが、賄賂に関わったマル暴刑事が懲戒処分の意味合いを兼ねて私の職場近くの堺市内に在る警察署に移動と成り、其の事が何処から知れたか判りませんがカタニカツイダカメラを持った一団が警察署玄関から駐車場に溢れ返っていました。

 

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此の映像は、私が生まれた翌年1961年に大阪市西成区釜ヶ崎で起こった第1次釜ヶ崎暴動を撮影した写真です。

 

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第1次釜ヶ崎暴動が起きて30年の歳月が過ぎ去り、其の間大なり少なりと20回の暴動が引き起こされ、この映像が通算22回目の暴動の背景を撮影した映像で、冒頭で述べたマル暴刑事とヤクザが原因で引き起こされた大暴動の様子です。

 

 

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暴動が起きた数日後に、当事者達とは全然関係ない俗に言うヤンキー・族(暴走族)とか言う腐れ外道が日頃の鬱憤を晴らそうと労働者の列に割り入って遣りたい放題の悪行の限りを尽くし、この行動を垣間見た労働者達がこの馬鹿共に非難轟々を唱え、帰って怒りが覚めて暴動の収束に至りました。

暴動の起きた界隈は、破壊と略奪の限りが行われ、コンビニが甚大な被害を被ったそうです。

私も数週間後、検証の為に訪れて辺りを散策しましたが、街の雰囲気が一変して痛かったです。

其の後も暴動は少なりとは言え2回発生し、その後は令和の御代まで沈静化しています。

 

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此方の2枚の映像は、南海電鉄JR西日本新今宮駅が在る場所で、此の高架下に日雇い労働者・日雇い人足が集まるあいりん地区と呼ばれる労働者センターが在りました。


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令和3年3月31日現在、此方の施設は或る理由で閉鎖され、此方に日雇いの斡旋は現在一切為されて居ません。

 

 

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施設の白壁に、閉鎖に至った経緯が1枚の紙に記されており、如何にも言い訳めいた文言が散らばめていました。

 

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施設周りは雨が凌げる場所が有るので浮浪者がブルーシートを用いて簡易テントを設営して其処で寝て暮らしている生活の場と化し、辺り一面はゴミや紙くず塵芥が積まれて荒れ放題と成り、壁一面に此の様な映画ポスターみたいな意味を成さない張り紙が辺り一面に貼り付けられて居ました。


 

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あいりん地区労働者センター内には、日雇い労働者を診る医療センターが在りましたが、センターの廃止と老朽化に伴い、センター真横に隣接して新たに医療センターを新設したみたいです。

此処で、皆様に申しておきたい事と致しましては、人流の流れや様子は一切撮影していません。

其の様な事を行えば、我が身に如何なる危険が及ぶかは未曾有なので空気を肌で感じて行いました。





今日は、朝から帰りが遅くなる予想して帰りはスーパーも閉まっているし、開いていても弁当類は9時を回れば何も無いのが判りきっているので南海本線終点難波駅駅ナカで551蓬莱の焼売と豚まんを買い上げました。
、豚まんは遅い夜食に、焼売は明日の夕食のおかずにと思惑を抱き、帰るなり早速豚まんを頬張りましたが、とんだ食わせもんを買い求めてガッカリしました。

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此方が、焼売6個入り。明日の夜食に。


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問題は、此の豚まんなのです?
どう食わせ物だという申しますと、ど素人が餡を入れて皮を丸めたのか知らないが、皮の分量が物凄く多くて餡の比率が極端が少なっており、分厚い皮を食べている感じで、体の良い蒸しパンを食べて居る感覚でした。
こない分厚い皮の豚まんを食べさせられたのは半世紀振りだ。
昔の蓬莱の豚まんは、餡が本当に少なくて殆どが皮を食べさせれていると言った具合でして、四方や半世紀振りに皮ばかり豚まんに当たるとは本当に不運だった!
次回は、真面な物に当たる事を願いまして、今夜の与太話とさせて頂きます。

前回の続きですが、最後に大楠公楠木正成の御首(みしるし)が葬られた首塚と後醍醐天皇の遺児後村守帝の御廟を紹介してお開きとさせて戴きます。

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修行大師像が在る場所から右側の階段を上がれば、視野に開山堂(本願堂)が眼前に佇んでいました。


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嗚呼、大楠公。合掌



NHK大河ドラマ「太平記 37話)にて其の当時の事をドラマで再現しているシーンを収めていますので、お時間の有る方はごゆっくりと鑑賞下さいませ!


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此方の帝は、北畠親房・顕家親子の泊付の為に旗頭として奥州(陸奥國)鎮守府に御動座され、数年間北畠親子と寝食を共にし薫陶を受け、忍耐強い父後醍醐帝の意志を受け継いで崩御の時まで北朝を担ぐ足利幕府と徹底抗戦してきた闘士です。

寺の敷地内とは言え、御廟は天皇の陵を戴いておりますので宮内庁の管轄管理と成り、誰かが管理小屋で駐留しておりますが、年に数日くらいしか居られないみたいで滅多に顔を観る機会が無いですが、今回も京都の醍醐廟同様に偶然に管理人と出会い話をする機会を得られました。

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観心寺の受付で、全部で四体の御朱印を拝受致しました。


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書置きが二体。


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関西花の寺二十五寺霊場の御朱印です。
此方の勧心寺は、関西花の寺霊場第二十五番結所の札所です。


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最後に、弘法大師修行霊場にも当たり、つい最近2005年に本山高野山から遺跡本山の寺格を贈与されました。
真言宗東寺派の御朱印帳で、御朱印を拝受致しました。

是れにて打ち切らせて貰います。

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